「女性の視点がいい」って褒められてもうれしくない。属性で個人を打ち消す罪について
『「あー、はいはい」となる褒められ方ってあるよね』
先週の朝井リョウ加藤千恵のANN0を聴いていて、語っておきたいと思った台詞があります。
朝井さんのフリートークゾーン、「伊坂幸太郎さんを褒めようとして失敗した」、というトークの流れでこんな感じの会話がありました。(正確に書き起こす気がなくてごめんなさい・・・)
朝井さん「すごく手の込んだ料理を作ったのに、期待したところと全然違うところ褒められてがっかりするような、あーはいはい、ってなる褒められ方ってあるじゃないですか。例えば、僕は、瑞々しい表現、って言われると、あーはいはい。それって若いからでしょ、って思う」
加藤さん「それでいうと、私は女性の視点が・・・と言われると複雑な気持ちになる、女性であることを選んだわけじゃないし。嬉しいんだけどね」
このやりとりについて、勝手ながら考えていました。
二人が言う、あーはいはい、と思う褒められ方について、なぜそう思うのか考えると、若さ、とか、女性、とか、いわゆる、「属性」≒予め備わっている分類 を褒められることで、「個人」の積み重ねや努力が打ち消されてしまう(ように受け取れる)からじゃないかと。
すごく、よくわかる。
属性と個人の複雑な関係
私自身も、こういうことに割りとよく気付きます。
しかもある種不幸なことに、自分の属性が目だってしまう環境に身をおいてしまったので、不快な思いをすることもしばしば・・・。
メジャーな属性同士であれば、属性で判断されることは少ないけど、少ないとどうしても目立つので、属性に言及しがちなのかもしれません。現業界で言えば、男性、30代-40代、既婚子持ちがメジャー属性の中に、20代女性が1割弱混ざってたらそりゃ目立ちますよね。
実際あった話で言うと、例えば、留学中はアジア人女性フェチの男性に言い寄られて嫌悪感を覚えました。その人は本当に、アジア人なら誰でもいいんじゃないか、って勢いで手当たり次第、な人で・・・。「私」が好きなのか、アジア人の性質、ルックスが好きなのか、で言うと後者だな、とげんなり・・・。
社会人になってからも、女性だから○○部に気に入られてるんだろうね、と言われたことがありました。「女性だから」ってどういう意味?「女性だから」で説明できることなんて、すごく少ないはずなのに。
「女性」や「アジア人」という属性も、自分の一部なのだから素直に受け取ればいいじゃない、という思いもあります。
ただ、お客様と少しでも距離を縮められるように接し方を工夫していたり、日々アウトプットの質を高められるように努力していても、「女性だから」で括ってしまった瞬間に、その価値評価に「個人」は見えなくなってしまうと思うんです。
そんなの、「あーはいはい」、どころか悲しくなります。
カトチエが言うとおり、私も、女性であることを選んだわけじゃないし、アジア人であることを選んだわけじゃない。それはすでに私に備わっていたものであり、努力して、願わくば評価されたいと望む対象とはやはり違う。
承認欲求が強いほどダメージは大きい
なぜ、価値評価に「個人」が見えていることが大事なのか。
それは承認欲求の根本に、「自分の存在を認めてほしい」という欲求があるからなのでは、と思います。
恋愛でも、他の人ではなく私を大事にしてほしい、と思う人は多いでしょう。
仕事でも、自分の代わりはいくらでもいる、と思うのは(現実思考だけど)辛い。
「個人」でなく「属性」で評価されるということは、自分ではない誰かでも評価されうる、ということであり、承認欲求的に言えば褒められている状態ではない。
安易に属性で褒めることは、私のように褒めて褒めて!認めて!というタイプの人間には結構傷つく仕打ちなんです。
朝井さんとカトチエさんのトークにのっからせてもらいましたが、(しかもご本人たちの意図と違うことを長々書いているかもしれないけれど)
自分もちゃんと個人を評価できる人間になりたいし、少しでも多くの人がこの違いに気付いてくれるといいな、と思っています。
完全余談ですけど、カトチエさんのクレイジーな免許トーク本当に面白かった。セフレ論争、センター試験の話に並ぶインパクト。価値観狂ってるって意味ではクレイジー枠は実は朝井さんじゃなくてカトチエなのでしょう・・・。